沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

「白河夜船」と「もらとりあむタマ子」

 

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  • 映画『白河夜船』のお絵描き。谷村美月(右)はともかく、安藤サクラ(左)はこんなジブリみたいな顔(?)では全くないが、下手に似せようとするとおかしなことになりそうなので、よしとしよう…。
  • パンフレットを読んだら面白いことが書いてあった。『白河夜船』の撮影が始まったのは、映画『百円の恋』が終わってすぐ1ヶ月後くらいだったそうな。安藤サクラは『百円の恋』(傑作!)でボクサーを演じたのだが、これがまた凄まじくハードなトレーニングを要求される役柄で、当然ながら撮影後はくたびれ果てていたらしい。その直後に『白河夜船』の、ひたすら眠ってばかりいる主人公・寺子の役が舞い込んできたんだから、「すごいタイミング」と思ったそうだ。ほんとにね…。ないよそんな役、めったに。
  • 全然違う映画だが、『もらとりあむタマ子』における前田敦子をちょっと連想してしまう。役者のリアル事情が存分に反映されている作品という意味で。『タマ子』の前田敦子も、AKBを卒業して、さてどうするか…みたいなリアルに「モラトリアム」な時期にあったという。極限まで走りぬいた人が、その直後に「凪」のような静かな作品で主役を務めるという点で、この二作は似ている。
  • そして実は、テーマ的な意味でも、両作は意外と近いものを描いているのではないか、とふと思った。『白河夜船』改め『もらとりあむテラ子』、とかいうと怒られるかな。
  • たしかに寺子の、ずっと眠っているしかないような深刻な虚脱状態を「モラトリアム」なんて言うのは失礼かもしれない。でも『もらとりあむタマ子』におけるタマ子のダラダラ生活だって、実は寺子の「眠り」に通じる深刻さを帯びているんだと思う。誰かが死ぬとか目立った悲劇はなくても、ただ繰り返すだけの日常の中で、心が擦り切れて疲れ果ててしまうということはある。
  • もらとりあむタマ子』はコメディだし、そこは決して深刻には描かれなかった。前田敦子のいわゆる「残念」な暮らしを、ちょっと面白おかしく淡々と描写していく映画だ。でも『白河夜船』のセリフを借りれば、タマ子もまた寺子と同じように、「自分が疲れてしまっていることにさえ気づいてない」のだろう。そして、モラトリアム的な空気のなかで、タマ子はずっと「眠り」続ける。無論、その空気こそが心地よい映画なのだが。
  • 結局、寺子のような決定的な目覚めイベントが訪れないという点では、むしろ何も悲劇なんかない『タマ子』のほうが、『白河夜船』よりも重い話であったとさえいえるのではないか。まあ、タマ子が少しだけ上を向く、みたいな空気も匂わせてはいたけど。
  • だから実はどちらも、タッチは全然違うけど、「呪いのような眠り」にとらわれながら生きる人間を扱った作品だと思った。飛躍するけど、「眠り」は人知が全然及んでいない、底知れぬ普遍的なテーマなのだな、と思う。
  • まとめると、「みなさん、ちゃんと寝ましょうね」ということです(全然違うだろ…)。いやでも実際、眠りは大切ですよ。さて、ここしばらく描いていた「リッスンガールズ」がほぼ完成…したので、今夜にでもあげよう。ウルトラ淡々とした話なので、寝る前に読むにはいいかもしれない…。