沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

『きみはいい子』再考!

  • 再び映画『きみはいい子』の話を。あ、タマフルの「ムービーウォッチメン」の課題映画にもなってましたね。ウタマルさんにも絶賛されていて、嬉しいです。私だってベスト2位に入れたもんね〜(何アピールだよ)。それにしても、あんなに明らかな傑作なのに公開規模が微妙に小さいという点が嘆かわしい限りですが、これでまた認知度が高まるといいな。

  • ていうかタマフルで最初に読まれたメールが、けっこう私の意見とシンクロしていて私が送ったのかと思いました。「予告編でうげぇってなっちゃったけど、でも実際に観てみると…」っていうやつ。同じこと思った人、多いのかもなあ。いや、別に予告編がまずかったわけじゃないと思うけど、それでも呉監督作品と知らなければ私も絶対に行ってなかっただろうな。それほどまでに私も、予告編では正直「うげぇ…勘弁してくれよ」と思ってしまったのでした。でもあの「宿題を出します」のくだりはどうしても入れたかったんだろうし…。問題は、本編では丁寧なロジックと巧妙な演出によって完膚なきまでに消失している「うげぇ感」を、予告編の短い時間で取り除くことは不可能ということですね…。予告編って本当に難しい。
  • 不毛な前置き終わり。以前の記事(映画『きみはいい子』観た! - 沼の見える街)では、おもに主人公その1である小学校教師の岡野とその生徒たちの話をしましたが、今日は主人公その2、尾野真千子が演じる母親・雅美について話したいと思います。この映画がユニークなのは、3本のお話が特に交差することなく進んで行くことなんですよね。原作が短編集だから、ということでしょうが、繋ぎ方が上手いので散漫な印象はまったく受けません。

  • 雅美には、あやねちゃんという三歳の一人娘がいるのですが、彼女はどうしてもこの子を可愛がることができない。それどころか、三歳児ならではの失敗を笑って許すことができずに、つい「しつけ」の範囲を超えた暴力を振るってしまいます。

  • 映画の序盤、雅美があやねを虐待するシーンなわけですが、ここが本当にリアルで強烈なんですよ。もちろん子役を実際に叩いているわけではないけど、暴力のシーンを直接写さないのは、子役や観客に配慮してという倫理的な理由からだけではない気がする。ぶっちゃけ直接見せない方が想像がふくらんでイヤな感じになるからだと思う…。外からは窺い知ることのできない家庭の深い闇、的な雰囲気の表現ですよね…。完全にホラーの手法ですよね…。こわいよ…。

  • 暴力が直接見えないことが何のフォローにもならず、むしろ陰惨さを強めていることに定評のあるその虐待シーンですが、またエライ長回しなんですよ、これが…。こんなに長回しで見たくないシーンって珍しいよ…。その間ずーっと延々と鳴り響いている、三歳の女の子の泣き叫ぶ声と、殴打音と、母親の罵声…。なるべく早いうちに観客の心をへし折ってやろう、という作り手のやる気を感じます。やる気って…大事ですよね…(死んだ目)。
  • その罵声の中でも特にキッツいのが、「恥かかせてんじゃないわよ!」というセリフ。ああ、この母親もギリギリなんだ…ということが伝わってきます。それというのも、その虐待場面の前の、公園での「ママ友」たちとの会話の場面が本当に見事だからなんですよね。あそこの演出が実に効いている。
  • ちょっとさかのぼりますが、冒頭で雅美が「ママ友」たちと座って、どうでもいいような話をしているんですよ。その内容も、別に悪口とかじゃないんですね。あの店のパスタが美味しい、子連れにも優しい、だから今度一緒に行こうとか、気楽なおしゃべりです。なのにめっちゃくちゃ…「息苦しい」んですよ……。
  • いっけん仲良く喋ってるけど、いわゆる「ママさんカースト」みたいなのもあるんだろうなとか、次々とイヤな想いが湧いてくる。公園の背後を取り囲むような巨大な団地が生みだす閉塞感もあいまって、とにかく絶望的な気持ちになります。ある意味その後の虐待の場面よりもさらにイヤな場面です。このくだりは本当に凄い。ぜひ劇場でイヤな気持ちになっていただきたいです(もはやネガキャン)。
  • で、そこに池脇千鶴の演じる母親・陽子がやってくる。この陽子というキャラの描き方がまた絶妙なんですよ。ガラガラとベビーカーを押して、明るいんだけどあんまり小綺麗ではなくて、ちょっと雅美やママ友たちには見下されている感じ。陽子が現れた時に「あ、来ちゃったね…」みたいな目配せをママ友たちと交わす雅美の、あの嫌な感じったらもう。
  • こんな感じで、母親・雅美を取り巻いている(のみならず自分でも加担して作り上げている)「息苦しさ」が、序盤からあの手この手で提示されます。そこから虐待のシーンへと、そして「恥かかせんじゃないわよ!」というセリフへとつながっていく。最終的には一番弱い者(ここではあやね)が引き受けることになる暴力の連鎖、その源はいったいどこにあるのか。その答えがこの序盤シークエンスで見事に示されていると思いました。
  • あ、以下はわりとネタバレ注意なのですが、実は雅美には父親から虐待を受けていたという過去があるんですね。その傷は、雅美が「虐待をしてしまう」理由として作中では提示される。でもその「理由」は(ウタマルさんの批評にもありましたが)、虐待という問題を矮小化している、とも捉えられかねない。この映画のひとつの「隙」でもあると私も感じていました。
  • ただ、改めて考察すると、先述した序盤の「息苦しさ」の描写によって、「親から子へ」という単純な流れとは異なるもうひとつの「暴力の源」をキッチリ提示できているんですよね。安易な図式化には、やはり陥っていない。その点も実は、めちゃくちゃ考え抜かれています。隙はない。
  • ちょっと長すぎるのでもう終わりたいのですが……なんか延々この映画が「いかにイヤか」を説明してしまったな…。もちろん「いかに凄いか」の裏返しなのですが。だって開始15分くらいでこれほど語ることがあるんですよ。でもこれを読んで「よし観に行こう!」と思う人はいないかもしれませんね…。大傑作なんですよ!ほんとです!…まあ序盤はひたすら「イヤな描写」が続きますので、イヤな気持ちになっていただければ。それは、後の感動への布石でもありますので。エンタメとして非常にキッチリ筋を通した映画なので、そこは安心して欲しいです。特に雅美と陽子の関係性が変わっていく過程は本当に素晴らしい…いや、もうさすがに終わります。劇場で確かめていただければ。
  • うわー…長いな…。やっぱり上限がないとつい書き過ぎちゃうんですよね…。しばらくちょっとブログを自制しようかな…。とか言いつつ明日は『アベンジャーズ』を観てきます。では。