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沼の見える街

ぬまがさのブログです。おもに映画の感想やイラストを描いたりしています。

マイネーム・イズ・マックス

マッドマックス 映画

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  • マッドマックス 怒りのデス・ロード』の英語スクリプトを読み込んでみて、また色々気づくことがあったので、前回(スリット・ザ・ウォーボーイ - 沼の見える街)に引き続き、考えてみたい。
  • 以前Twitterにも少し書いたんだけど、この作品、「my(俺の/私の)」という単語にすごく大事な役割が与えられているように思う。「my」という所有格をめぐる壮大な物語といっても過言ではないんじゃないだろうか。
  • ためしに作中で登場人物が「my」という言葉を使う回数を調べてみたが、合計で32回(mineも含む)。セリフの絶対数の少なさを考えれば、かなりの頻出単語といえる。そしてその内訳が興味深い。まず男性陣が、マックス11回、イモータン・ジョー8回、ニュークス9回(ちなみにスリットも1回)。対照的に女性陣は、相当セリフの多いフュリオサでも、わずか3回。そして5人の妻たちは誰ひとりとして、一度も「my」という言葉を使っていない。この「my」使用頻度の偏りはとても興味深い点なので、後述したい。
  • まず「my」は本作で最初に登場する単語でもある。冒頭のフレーズは 「My name is Max. My world is fire and blood.(俺の名はマックス。俺の世界は炎と血でできている)」。マックスの意識そのもののように混濁した暗闇の中で、世界が崩壊していく様が語られる。「My name is Max」という言葉が初っ端にもってこられたのは、「シリーズものだから」という以上に、マックスにとって「名前」がいかに大切かを表しているのではないか。正義の心や愛する人々を失い、狂気の崖っぷちにいるマックスにとって、「My name(自分の名前)」は最後に残ったアイデンティティだろうから(よって簡単には他人に明かさない)。
  • しかしこの世界では、「自分の(my)もの」は次々に奪われていく。現にモノローグが終わると速攻、マックスのもうひとつのアイデンティティともいうべき愛車インターセプターが襲撃されて奪われてしまう。サツバツ。
  • 実際「他人のものを奪って」「自分のものにする」こと、それこそがこの世界の絶対的なルール。それを最もよく体現しているのが、ラスボスのイモータン・ジョー。その姿勢は、彼の「my」という言葉の使い方や使用頻度にもよく表れている。ちょっと長いが、ジョーが群衆を前に行った演説を引用してみる。
  • "Once again we send off my War Rig to bring back guzzoline from Gas Town and bullets from the Bullet Farm. Once again I salute my Imperator Furiosa and I salute my half-life War Boys who will ride with me eternal on the highways of Valhalla."
  • 詳しい和訳は省くが、「我がウォー・タンク」「我が大隊長フュリオサ」「我がウォーボーイズ」と、短い文章の中に3回も「my」という単語が使われている。権力の座に居座るためにも、様々なものや人が「自分のものである」と主張するのはジョーにとって非常に重要なことなのだろう。
  • ちなみにジョーの愛車「ギガホース」は、キャデラックを2台上下に重ね合わせたという狂ったデザイン。これは、「物不足の荒野で、同じ物を二つ持つことのできるジョーがいかにすごいか」というアピールになっているということ(パンフより)。
  • そんな風に「所有」にとことんこだわるジョー様なので、もちろん妻やその子供達のことも、自分の「所有物」だと固く信じている。ウォー・タンクを追いかけながら、スプレンディドに「That’s my child. My property.(それは俺の子供だ。俺の財産だぞ!)」と叫んだことからもその信条は明らか。
  • だがそんなジョーの姿には若干の焦りと不安が見られた。妻たちの教育係のミス・ギディに「They are not your property!(あの子たちはあんたの財産じゃない!)」「You cannot own a human being.(人間を所有することなんてできやしないのさ!)」と面と向かって言われたのも大きいのだろう。「my=所有」至上主義の男に対する、女たちによる真正面からのカウンターパンチ。
  • (先述したように)特に5人の妻たちは、合計するとけっこうな量のセリフがあるにもかかわらず、本作の頻出語である「my」を一度も使っていない。(もちろん所有物が少ないからというのもあるだろうけど)ひょっとして、そもそも単語自体を知らないとか…?「所有物が所有をあらわす単語を覚える必要はない」とか言って、妻たちに「my」という単語を教えることをジョーが禁じていたのでは…?などと妄想してしまったが、さすがにmyくらい知ってるか…。それでもこの「my」使用量の男女間での偏りは、かなり意図的なものであるように思える。
  • そしてジョーだけではなく、むろん部下であるウォーボーイズもその思想に影響されており、ニュークスもことあるごとに「my」という言葉で「俺のものだ」とアピールする。たとえばスリットと口論しハンドルを奪い合う一連のシーンでは、「That’s my wheel!(おれのハンドルだぞ!)」とか「We take my blood bag!(おれの輸血袋をもっていこう!)」とか「You’re my lancer!(おまえは俺の槍手だろ!)」とか。「Today is my day!(今日は俺の日だ!)」というのも一種の「俺のものアピール」と言えるし。ジョーの演説とウォーボーイズたちの会話を通じて、「my」の登場回数は実に12回。マイマイうるさい。序盤のシークエンスで、この世界における「所有」への志向がさりげなく示されているわけです。
  • そしてもちろん、マックスもその志向の例外ではない。暴力にさらされて一方的に奪われ続け、だからこそ「所有物」への執着も大きい。(モノローグを除けば)最初のセリフからして、"How much more can they take from me? Got my blood; now it’s my car!"というぼやき。字幕だと「俺の車だぞ!」に圧縮されていたけど、直訳すると「一体どれだけ俺から奪えば気が済むんだ?俺の血を奪ったと思ったら、今度は俺の車か!?」となる。不憫さマックス。
  • ちょっと面白いのは、マックスがスリットに「(槍が頭に)かすったぞ!」っていうセリフが、言語だと「That’s my head!(俺の頭だぞ!)」ということ。ここでも「my」なのは「俺の血や車の次は、俺の頭を奪う気か!」というニュアンスかな。(なお、この後スリットが「おい頭、首にサヨナラしな!」って言うのは、マックスのこの悪態に対応してる。無駄に気がきく奴だ…。)あとニュークスからジャケットを取り返す時にも「 That’s my jacket!(俺のジャケットだぞ)」と怒ってましたね。とにかくこの世界の男たちは「my」をめぐって争う。
  • そんな「my=自分のもの」にひたすら執着するマックスも(ニュークスも)、旅を通じて変わっていく。誰もが自分のことしか考えていないこの世界で、誰かのために命をかけているフュリオサ。そんな彼女たちと出会い協力し、次第に心を通わせていくなかで、イモータン・ジョーに象徴される「所有=利己」の呪縛から、マックス(とニュークス)は少しずつ解き放たれていく。
  • スプレンディドの死も、マックスが「利他」の心を取り戻すためのきっかけとなった。マックスの変化として最初に目立つのは、武器将軍をぶっ殺して弾薬を持ち帰る時に、ニュークスにブーツと彼の欲しがっていたハンドルをあげた場面(逆さ吊りにされてるときに耳にした会話を思い出したのかな。優しさマックス)。マックスが誰かに何かを「与える」シーンは多分ここが初めてですね。
  • その後も徐々に「利他」的な心を取り戻していくマックスだが、「一緒に来るか?」とフュリオサに誘われ、一度は「I’ll make my own way(俺は一人で行く=自分の道を行く)」と断る(ここでもmyに注目)。しかし子供の幻影を見て思い直し、彼女たちのために最終決戦に身を投じることに決める。
  • そしてついにラストでは、最初は「奪われる」対象だった血液を、瀕死のフュリオサを救うために「与える」ことになる。その時にマックスが口にする言葉が、「Max. My name is Max. That’s my name.(マックス。俺の名はマックス。それが俺の名前だ)」。
  • 一番最初のセリフとまったく同じだけど、「My name is Max」の意味合いは、フュリオサや仲間たちとの旅を通じて180度変わっている。「自分に残された最後のアイデンティティ」として、「my name(自分の名前)」を必死に握りしめていたマックス。だが最後にはフュリオサ(他者)に心を開き、まるで血液と一緒に「与える」かのように、自分の名前を告げる。そうすることで、一度は失ったはずの「誰かを思いやる心」を取り戻し、マックスもまた救われる。ラストシーンでは空へ昇るフュリオサを見つめながら静かに立ち去り、再び「my own way(自分の道)」に戻って行くマックスであった…。
  • こうして「my」という言葉を始まりと終わりに据えて、「利己と利他」をめぐる物語の円環が美しく閉じるわけです。だからもう、なんというべきか、本当にまっとうな映画なんですよね…。まっとうマックスですよ。勧善懲悪や因果応報が完璧に成り立っているし、倫理的にも何一つ間違っていないし。まさしく中学生とかに見せるべき映画でしょう。なんでR15指定なんですかね!?マジで!!!!
  • というような社会への問題提起を投げかけて終わりたいと思います。ニュークスの話もしたかったんですが眠いのでまたの機会に。お付き合いくださった方、感謝です。ヴァルハラーーーッ。