沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

おもいでの黄前

  • ここ数日また『響け!ユーフォニアム』のことばかり考えている。なぜだろう。衝動買いしたサントラ「おもいでミュージック」を、作業BGMとして延々と繰り返し聞いていることと何か関係があるのだろうか…。
  • すっとぼけはともかく、サントラを聴いていたらまたアニメが見たくなったので、録画した分を見直したりしている。10話から最終話までしか録画してなかったのが悔やまれるな。
  • あらためて見返してみても、つくづく奇跡的な作品だと思う。まあ地味といえば地味だし、二次創作とかもそんなには盛り上がってないようだし、過去作に比べればディスクの売り上げも今ひとつだったりするのだろうが、こうした素晴らしい傑作を作り上げたという事実は、これから長きにわたって京アニを支え続けるのではないかと思う。何様視点だよって感じですが…。
  • たった13話のなかで膨大な数のキャラクターの心情や葛藤や濃密な関係性を見事に描ききっていて、どのキャラも本当に実在感があって、もうみんな好きになるしかない。あえて好きなキャラを3人に絞って挙げると、黄前久美子と夏紀先輩とデカリボン優子ということになるだろうか。ちなみに順不同。悪いけどこれ以上は絞れない(知らん)。
  • …とはいえ、どうしても一人に絞れ、絞らなければお前の飼っている犬の命はないと脅されたら、泣く泣く黄前久美子を選ぶことだろう(犬飼ってないけど)。このキャラの底知れない魅力については以前にも語ったので省略…しようかと思ったがやっぱり語る。というのも黄前の凄まじさというのが、意外と『ユーフォ』ファンの間でさえ、そこまで広く認識されてないように思うんですよね。まあ私だってまだちゃんと言語化できてはいないんだけど…。
  • Amazonのレビューとかを見ても「主人公がすごく普通の等身大の女の子で好感がもてます!」みたいな感想がチラホラあって、なるほど確かにそれもわかるんだけど、黄前というキャラの「ヤバさ」というか「恐ろしさ」の部分がもうひとつ伝わりきっていないのかな…?と感じたりして。
  • というのも私は黄前を、めちゃくちゃオリジナリティのある、稀有で異常な主人公だと思っているので。アニメのみならず漫画や映画、あらゆる創作物を振り返っても、類似の例をまったく思いつかないような、とんでもない発明だと思う。またその凄さが、狙って生み出したというよりは、ちょっと作り手の意図さえも超えてしまって、「我々はとんでもないものを生み出してしまった…」的な感じさえ漂っていて、そこがまた凄い…。
  • しかし肝心の、黄前のどこがどう凄いのかを言い表すのが、また非常に難しいんですよね(だからこそ斬新なんだとも言えるけど)…。一言で言えば、「実在感」とか「リアリティ」とかそういう言い方になるんだけど、実在感やリアリティのある主人公はこれまでにも沢山いる。いや、もちろん「萌えっぽい絵柄のアニメで、ここまでの実在感やリアリティを出しているなんて凄い!」ていう褒め方だって正しいんだけど…。でもそういう「アニメにしては」みたいなことじゃなくて、もっと根本的に創作物のキャラとして新しい、凄い、ということが言いたい。
  • 黄前久美子は確かに「よくいる平凡な女の子」というフォーマットを踏まえて造形された、誰もが感情移入しやすい主人公であり、観る側の「視点キャラ」となってくれる観察者でもあり、基本的には「冷めた子」である。しかし麗奈との再会を通じて音楽への情熱に目覚め、「熱い子」への成長を遂げる。この枠組み自体はテンプレにして王道のはずで、久美子自身もそれを踏み外すような行動は一切しない。にもかかわらず、凡百の「平凡な主人公」よりも格段に強烈なリアリティや実在感を有している。そのことが凄い。
  • それどころか、私の大好きな夏紀や優子をはじめ、麗奈や葉月や緑輝やあすかや晴香といった『響け!ユーフォニアム』の素晴らしいキャラクターたちとも、その独自性において黄前は、やはり確実に一線を画しているように思う。そしてこの差異は「主人公だから」で済まされるものでは多分ない。この黄前久美子という個別のキャラクターに関して「とんでもなく実験的な何かが大成功してしまっている」としか言いようがない…。
  • なんかさっきから抽象的なことしか書いてないな…。黄前の特殊性を考える上で最大のヒントになるのが、8話で麗奈が指摘した「性格の悪さ」なのは間違いないが…と続けようと思ってたんですが、頭がこんがらがってきたので今日は終わります(こんなんばっか)。いずれ本格的な「黄前久美子論」でも書こうかしら。もう誰か書いてそうだけど、自分のために…。いや〜、ユーフォって本当にいいものですね(ひどいまとめ)。では。