沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

イン・アルトレ・パローレ

  • ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』を少しずつ読んでいる。ベンガル語と英語をふたつの「母語」とする筆者が、なぜか完全に未知の言語である「イタリア語」に惹きつけられて、コツコツ学び始め、ついにはイタリアに移住する…という過程を、美しい文章で書いたエッセイ。ツイッターで見かけてピンときたので、衝動買いしてちょっとずつ読んでるのだった。
  • 日本語の翻訳で読んでいるんだけど、これ、そもそもイタリア語で書かれていた本なんですね。知らなかった…(原題は "In Altre Parole" )。全然イタリア語を知らなかった著者が地道な努力を重ね、ついには「べつの言葉で=イタリア語で」本を出すまでになった、ってとこまで含めて「驚き」になっている作品だったのか。なるほど。
  • ということは、邦訳で読むとかなり価値が減じてしまうタイプの作品か…?と一瞬思わなくもなかったが、別にそんなことはなく、読んでみるとちゃんと面白い。言語どうこう以前に書いてある内容がとても真摯なので、語学に関心のある人だけではなく、何かを学ぼうと思っている人や学んでいる人、創作に携わっている人、いろいろな人の心に響く本だと思う。
  • こういうあんまり売れなさそうな、しかし「他者」や「異文化」に対するまっとうで美しい視点をもった本を、地道に出してくれている人たちを心から尊敬する。ちょうど今日、差別的な本を嬉々として売り出している出版社や本屋の無残な現状を目の当たりにしたばかりだから、なおさらそう思う。こんな世の中ではあるが、美しいものを探し出し、愛でたり金を払ったりしていこう…。
  • 『べつの言葉で』、途中で見つけた美しい一節を引用して終わりたい。

読んでいると、毎日新しい言葉がいくつも見つかる。下線を引いて、手帳に書き写さなければいけない何かが。雑草をむしる庭師が頭に浮かぶ。庭師の仕事と同じく、わたしのしていることは、要するに無茶な仕事なのだと思う。成功する見込みはない。シーシュポスの徒労のようなものだと言ってもいいだろう。庭師にとって、自然を完全に管理することは不可能だ。同じように、わたしがどんなに望んでも、イタリア語の言葉をすべて知ることなど不可能なのだ。

だが、わたしと庭師には一つ根本的な違いがある。庭師にとって雑草は望んでいるものではない。根こそぎにして捨ててしまうべきものだ。反対にわたしは言葉を拾い集める。手に持って自分のものにしたいと思う。(「辞書を使って読む」p.32)