沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

『セッション』再考

  • 映画「インヒアレント•ヴァイス」をみてきた。ヒューマントラストシネマ渋谷。ちなみに年会費千円払ってるので、火曜と金曜は千円で見られる。学割より安いのは実際大きい。テアトル新宿とか角川シネマとか、意外と有効範囲が広いのも良い。この系列(テアトルシネマグループ)は良作率が妙に高いし、都内で映画見られる方にはオススメしたい。シネリーブル池袋でも「叛逆」の最終上映を見たっけな…。懐かしや。
  • なんかステマっぽくなってしまった…。ステマにしては地道すぎるけども。千里の道も一歩から的な。
  • で、『インヒアレント•ヴァイス』の話をしようかと思ったが…またにしよう。トマス•ピンチョンという、可愛い名前だが圧倒的な難解さで知られる作家の小説の映画化。こういう映画の話をする時こそイラストの力を借りたい。
  • 映画そのものは難解っていうよりは「すっとぼけたオフビート」みたいな感じで、けっこう親しみの持てるものだったんですけどね。「モット!パネケイク!」(決め台詞)

 

  • さて、「セッション」について、まーだ考えている。個人的にはもうひとつだった、みたいなことを書いたが、観客の評判も上々のようだし、キネマ旬報でもクロスレビュー満点だったし、一般的にも批評的にも絶賛モードみたいですな〜。
  • やっぱり最大の立役者はJKシモンズ演じるフレッチャー先生なんだろう。「ダークナイト」のジョーカーとか、「ノーカントリー」のアントン•シガーみたいに、今後折に触れて言及され、ネタにされる名悪役になっていくのだろう。
  • でもやっぱり『セッション』、どうにも自分としては、大好きとは言い切れない、どこかひっかかる映画で、やっぱりその理由はフレッチャーの造形にあるのだと思う。
  • 一言で言えば、フレッチャー先生は最後まで、「正しさという残酷」を体現するキャラでいてほしかった。むしろ、そっちの方がずっと怖かったのに、と思う。
  • 最初のスパルタ場面の先生がどうしてあんなに怖かったのかというと、嫌な「正しさ」を感じられたからだと思うんだよな〜。リズムの正確さを徹底的に追及する姿に象徴されるような、音楽家としての絶対的な正しさ。その正しさの前には、こちらの人間的な弱さとか事情とか感情なんてものはなぎ倒され、すり潰されてしまう、というような。
  • なんつーのかな。「絵が上手くなるにはどうすればいいんですか?」と絵の上手い人に無邪気に訪ねたら、味も素っ気もなく「1日16時間練習しろ」と答えられた時の、やり切れなさと言えばいいのか。「そりゃ〜それが正しいんだろうけどさあ!」とつい思っちゃうじゃないですか。(やる気でる人ももちろんいるだろうけど。)
  • 絵だけじゃなく、勉強でも仕事でもなんでも。「すべてを捨てて、とことんやれば成功する」という考え方は「正しい」。でも、私を含め大抵の弱い人は、そんな「正しさ」を100%実行することはできない。いや、どんなに凄そうな人でも、その「正しさ」とのせめぎ合いの中で生きていると思うんですよ…。
  • で、そういう「人の普遍的な弱さ」の部分をガンガン攻めてくる感じの映画なのかな、とびくびくしながらも期待していて、少なくとも前半まではその点、すばらしかった…というのは先日書いた。
  • そんで、フレッチャー先生が、その「残酷なまでの正しさ」を体現するキャラクターを最後まで貫いていてくれたら、もっともっと普遍的な怖さと魅力を獲得していたのでは…と感じたのだよな。なのに終盤に先生がある行動をすることで、その「正しさ」がすごく矮小化されてしまうというか…。「あ、な〜んだ、単に嫌な奴だったから、生徒に厳しかったんだ…」みたいになっちゃうというか。少なくとも私は、逆にホッとしてしまった。「正しさ」こそが怖かったのに。
  • …長くなってしまった、半端ですがこの辺で。ま〜「あのキャラがもっとああだったらよかったのに!」なんて、外野の気楽なたわごとですな。こういう文句めいた妄言がいろいろ出るってことも、いい映画の条件ですね。観て損はないと思うので、チェックしてみてつかあさい、「セッション」。
  • あ、ニンジャ2話まだみてない…。みよう…。