沼の見える街

ぬまがさのブログです。おもに映画の感想やイラストを描いたりしています。

『私ときどきレッサーパンダ』が最高だった話。

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心待ちにしてたピクサー最新作『私ときどきレッサーパンダ』(原題:TURNING RED)、Disney+に来たので観たけど本当に素晴らしかった。(巨大レッサーパンダやころころした人間キャラの)度を越したキュートさ、見たことない圧倒的なアートワーク、軽快で畳み掛けるようなユーモア、「そうきたか!!」というアッと驚くアイディアがこれでもかと詰め込まれた至福の100分だった。ディズニー側の都合で(アメリカはしょうがないのか知らんけど日本では劇場公開してくれたっていいだろ!!!)映画館で味わえなかったのが心から残念だしディズニーまじムカつくのでレッサーパンダに変身しそうなのだが、作品自体は文句のつけようがなく、ピクサーの新たな時代を告げる傑作だと思う。

ストーリーを超ざっくり書くと、カナダで暮らす中国系のオタクな女の子メイメイが、同じくオタクっぽい友達ーズ(超いい)と楽しく暮らしていたのだが、ある日先祖の呪い的な不思議パワーによって巨大レッサーパンダに変身してしまう!変身の引き金はどうやら彼女の「感情の昂り」らしく…?って話。

監督は短編「Bao」を作った中国系カナダ人女性のドミー・シー氏。(「インクレディブル・ファミリー」の同時上映だった短編。)いい機会だし「Bao」も見返したけど、圧巻のもちもち3D描写や、親が子を思う気持ちを肉まんで表現するぶっ飛び方、だからこそ終盤の「あっ!!!」と声出しそうになる展開など、なんつーか才能がほとばしりまくった大変なアニメ短編であった…。そして『レッサーパンダ』のテーマにもかなり深く連なってくるので確実に見返したほうがいいと思う。

ドミー・シー氏のような才能あふれる、しかし(女性、アジアルーツなど)アニメ界ではさまざまな意味でマイノリティにあたる監督が、超メジャーのピクサーで映画を作っただけでもエポックメイキングなのだが、それがここまで見事な出来とは感動するしかない。それだけに劇場公開中止の判断が全く関係ない私でさえとても悔しいので、作り手はさぞやさぞや残念なことだと思う。まぁだからって傑作っぷりは変わらないけど。

『私ときどきレッサーパンダ』は、ドミー・シー監督を筆頭に女性スタッフ主導で作り上げたことに大きな意義と意味がある映画。女の子同士のハチャメチャ日常や友情物語、母と娘の複雑で味わい深い関係性といった物語全体や、さらに細部にいたるまで、「女性による女性レペゼン」的な要素がとても強く、新時代的なフレッシュさを生んでいた。細部では、たとえば生理について(ディズニー/ピクサーに限らず)ここまでちゃんと言及する全年齢向けアニメは初めて見た…。女性にとってはものすごく身近な話題のはずなのに、フィクションで触れられることがあまりに少ないトピックでもあるので。こうしたことをピクサーのような大御所が女性主導でやるのは本当に画期的だなと感銘を受ける。そうした生理にまつわる気まずさや恥ずかしさ(まさに原題のTurning Red=赤くなるという…)は、普遍的な思春期の「性」への戸惑いとしてビビッドに描かれていたし、男子が見ても大いに共感できる話に仕上がっていたと思う。

メイメイが(カフカの『変身』のように)変身してしまう「レッサーパンダ」が何を象徴するのかも、多様な解釈ができて面白い。基本的には「その人がうちに秘めた、時には荒れ狂うような大きな情念」ということだけど、「情念」というのが「創作マインド」だったり「性欲」だったり「恥ずかしさ」「喜び」「怒り」だったり、あるいはそうした全ての混合だったり、多層的な見方が可能になってる。ひとつ言えるのはこうした全ての「情念」を(特にアジア圏では)女性があまり表に出すべきではない…という社会的な抑圧が存在するということ。これを踏まえると、女性メインで作ったことの意味がさらに増すし、社会へのカウンター的な作品でもある思う。

こうした情念の中でも(私自身が作家なこともあり)やっぱり特に注目したいのは「創作マインド」で、ここでメイメイがオタク女子なことが重要になってくる。メイメイは小さな火花のような(性の目覚めっぽさもある)ときめきを、燃え盛るような創作欲として爆発させていくんだけど、そうした創作欲が客観的に見ると「黒歴史」的な強烈な恥ずかしさも生む、という生々しい点もしっかり描かれていて、それがレッサーパンダに変身する遠因にもなっている。 

そこには、ドミー・シー監督のリアルな創作遍歴も反映されているはず。彼女が若い時に二次創作的な活動をめっちゃ活発にしていたことが、同じくDisney+のドキュメンタリー『レッサーパンダを抱きしめて』で語られる。「作りたい、恥ずかしい、でも止められない!」という、喜びや戸惑いや怒りや性が織り混ざった強烈なうねりのような情念が創作の初期衝動になっていることは、監督のみならず多くのクリエイターが同意することだろう。(私も漫画とかイラストとか発表し始めたきっかけは二次創作なので共感することしきりだった。)そうした様々な寓意が込められたレッサーパンダと、最後にメイメイがどう向き合うのかも、すごく好きな着地だったのでぜひ確かめてほしい。

『私ときどきレッサーパンダ』、女性による女性レペゼンという観点からも、メイメイや友達など女の子たちのキャラデザは見事の一言。(『ミラベルと魔法だらけの家』でも凄かったけど)いわゆる「美少女」的なテンプレを崩してリアリティを確保した上で、キャラクターをとんでもなくイキイキと魅力的に見せる技術、海外アニメの一流どころは、もはや凄まじい水準に達してるな…と震えてしまう。地味に中年女性ズ&おばあちゃまもリアリティと妙なカッコよさを両立した造形で良かった。
ひるがえって、一定の「美しさ」の記号の範疇におさまる女性キャラしか描かれなくなっている日本のアニメ界は、本当にこのままで良いのかとも正直思わざるをえなかった。まぁディズニー/ピクサーなんて世界屈指の天才クリエイター集団だからあまり比べても虚しくなるだけかもだが、(国の文化ごとの単位としても、その辺の野良クリエイターとしても)学ぶべきことはものすごく多いと感じる。

アートワークもどう作ってるのか見当もつかないほど秀逸で、アートブックがほしくなった。現代のピクサー的な丸っこい3D表現と、温かいパステルカラーで平面的なタッチの色彩世界を接続する…という離れ業で、ディズニーの3D作品群(最新だと『ミラベル』など)ともまた全く違う味わいを出してる。何気にスパイダーバースに匹敵するくらい革新的なのでは?と思う。この辺は詳しい人の考察も聞きたい。

『私ときどきレッサーパンダ』、動物好きのくせに(映画全体が良すぎて)逆に言及し忘れそうだが、もっふもふ動物アニメとしても最高だった! 「感情が昂ると巨大動物に変身する」というシンプルな発想から、とにかく楽しくて面白いアイディアを満載していて全く飽きない。レッサーパンダという動物は中国など一部の地域にしか生息しないが、だからこその(特定地域や文化に根付いた)神秘性を、こうした形で生かすのか〜という感心ポイントも。
動物変身アニメ映画といえば最近『ウルフウォーカー』という大傑作があったが、すぐにまた違う意味での傑作が出てくれて嬉しい。(ただ、よく考えてみると『レッサーパンダ』と『ウルフウォーカー』の動物変身、社会の抑圧から女性が解放される様を動物変身で表してるという点で、意外と近い意味合いがある気もしてきた。)
終盤とかもはや動物映画っていうか思いっきり「○○映画」だし、あまりにド派手なクライマックスは「そこまでやってくれるとは!」と感動しちゃった。作り手の「映画館に来てくれてありがとね!!」という特盛サービス精神がひしひし伝わってきて、ほんとに…ほんとにほんとに…映画館で観たかった……ディズニーめ。

不満ついでに付け加えると、『私ときどきレッサーパンダ』が文句なしの傑作であるからこそ、なおさらディズニーの企業としての不誠実さに対する憤懣は増していくばかり。例えばピクサーのクリエイター陣に対して、ディズニーが同性愛的な描写を消すよう「検閲」していた…という酷い告発もあったばかりだし。ドキュメンタリーによると主要製作陣には同性愛者の方もいたわけで、そうした方々の気持ちを思うと心が暗くなる。
実際『レッサーパンダ』でも、あのゴスっぽい友達が他の女の子と気が合うくだりとか、「ここは作り手も本当ならセクシャルマイノリティ描写に繋げたかったのでは…?」という箇所も見られた。(まぁ本作ではどの女の子も男子アイドル大好きという共通点があるから、ヘテロセクシャルな描写に傾きがちなのは必然的ではあるけど、セクシャリティはまた別の話というか本来「それはそれ」なわけで。)
そうした明確なマイノリティ描写があれば、女性による女性レペゼン映画として、さらに高みへと達していたはずなのに、優秀なクリエイターの足を引っ張るディズニーほんと腹立つな!!と巨大レッサーパンダに変身して何もかも破壊したくなるが、そうすると本作の真摯なテーマを裏切ることになってしまうので、(怒りの情念はうちに秘めつつも)本作の素晴らしさを胸に抱えてしんどい世間を生きていこうと思う…。今ディズニー課金したくねえ〜っていう人も多いかもだけど(わかる)、観られる人はほんと観たほうがいいですよ。なるべく大画面で劇場に近い環境で観てね。だいぶ長文になってしまったので終わり。

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